フッ素系スキーワックス禁止とは
「2019年11月、国際スキー連盟(以下FIS)評議会は、環境と健康に悪影響を与えることが科学的に証明されているフッ素系スキーワックスの使用を、2020-21シーズンからFISの全競技種目の競技で禁止することを決定した。」
この文章で、この事実を初めて知ったという愛好家も多いことでしょう。FISのレギュレーションについて、その後の経緯は後述しますが、このリレーコラムは、スキーと雪の摩擦現象を分析している研究者やスキーワックスメーカーなどの見解を掲載し、競技者以外のスノースポーツ愛好家たちがFISの決定による影響やその背景を理解する手がかりとなればと思っています。

身近な化合物「フッ素」
化合物としての“フッ素”は、日常生活にも密接に関連のある、身近な物質だといえます。だからこそ、FISの決定は衝撃的でした。一方で、2016年に沖縄で汚染が発覚し、その後、多摩地区の複数の井戸水から国の目標値を超える有機フッ素化合物(PFAS)が検出されていることが新聞記事※1,※2,※3や、NHKクローズアップ現代(2023年4月10日放送)でも取り上げられ、 有機フッ素化合物が健康被害をもたらす可能性があるという認識も広まっています。井戸水の問題について東京都は、5月1日から電話相談窓口を開設し、健康への不安などを抱える人の相談を受け付ける事態となっています※4。“フッ素”というキーワードがメディアに頻出している昨今、フッ素系スキーワックス禁止の背景を正しく理解することは、競技レギュレーションによって影響を受けるスノースポーツ競技者に限らず、一般の愛好家にとっても重要なことがらだといえます。

フッ素って危険なの?
有機フッ素化合物(PFAS)は、泡消火剤や塗料などに使われてきた化合物の総称で、約4700種類あるとされています。人体や環境への残留性が高く、腎臓がんの発症やコレステロール値の上昇など健康に影響が出る恐れがあるため、代表的物質のPFOSやPFOAなどは国際的に規制が進んでいます※5。スキーワックスに使用され、有害性が指摘されている有機フッ素化合物は、PFOA(ペルフルオロオクタン酸)です。FISのレギュレーションにおいては、PFOAに限らずすべてのフッ素化合物配合のワックスが規制の対象となっています。しかし、上述の通り有機フッ素化合物の多様性は高いです。例えばPFOAを含まないフッ素樹脂を使用したフライパンの安全性が謳われていることと同様に、PFOAを含まないフッ素系ワックスの使用は問題ないと考えるユーザーは少なからず存在するでしょうし、これが困惑を生む原因になっているともいえます。日本国内のワックス開発者、販売者もまた、ユーザーの顔色を窺いつつ玉虫色の対応をせざるを得ない状況もあるようです。
多くの歯みがき粉にも配合され、虫歯予防などで使用される最も身近な“フッ素”は、無機フッ化物イオンであって、有機フッ素化合物とは全くの別物であることも、あらかじめ知っておく必要があります。
FISの規制そのものの正当性、運用の方法、そして、一般ユーザーにどこまで影響を及ぼすことなのか、さまざまな疑問が浮かぶなか、まずは現状を洗い出すことでその先の議論のきっかけになればと思います。    (高村直成・中央大学)

※1東京新聞 https://www.tokyo-np.co.jp/tags_topic/PFAS/1
※2読売新聞 https://www.yomiuri.co.jp/national/20230428-OYT1T50045/
※3朝日新聞https://www.asahi.com/topics/word/%E3%83%95%E3%83%83%E7%B4%A0%E5%8C%96%E5%90%88%E7%89%A9.html
※4東京新聞2023年4月24日 https://www.tokyo-np.co.jp/article/246946
※5東京新聞2023年5月15日 https://www.tokyo-np.co.jp/article/249985?rct=PFAS


フッ素系ワックスの使用禁止について 〜国際スキー連盟(FIS)の決定から現在まで〜

全日本スキー連盟(SAJ)は2022年7月11日付けで、フッ素系ワックスの使用禁止についての通知を出した。

【お知らせ】フッ素系ワックスの使用禁止について(通知)

SAJはこの通知において、「国際スキー連盟(FIS)公認大会におけるC8/PFOAを含むフッ素系ワックスの使用禁止を強く指示いたします。」としたが、この記述が不正確だとして、2022年8月31日付で通知内容訂正及び追加を行った。

【お知らせ】フッ素系ワックスの使用禁止について(通知内容訂正及び通知内容追加)

それによると、「2022/2023シーズンより、FIS及び本連盟は、FIS公認大会において、フッ素成分を含むすべてのワックスの使用を禁止する。」とされ、特定のフッ素化合物に限らず、フッ素成分を含むすべてのワックスが対象である、とより明確な定義を採用し、追加内容としてSAJ公認大会での使用も禁止するとした。なお、FISの国際競技規則(ICR)では、2020/2021シーズンから、フッ素成分を含む全てのワックスの使用禁止が明文化されている。

 

フッ素を含む有機化合物による人体への健康被害や環境への悪影響が科学的に明らかになってきたことから、ヨーロッパ連合(EU)では、EU規則2019/1021(POP規制)およびEC規則1907/2006(REACH-規制)で、EU域内におけるフッ素系ワックスの生産、取引及び使用を2020年7月4日から禁止することが決まった。このことにより、国際スキー連盟(FIS)では、2019年11月開催の理事会で2020/2021シーズン以降のすべてのFIS公認大会においてフッ素系ワックスの使用禁止を決定した(ICR第222.8条)。

https://assets.fis-ski.com/image/upload/v1574528041/fis-prod/assets/FIS_Council_Decisions_November_2019.pdf

https://www.fis-ski.com/en/international-ski-federation/news-multimedia/news/fis-council-gathering-february-2020-decisions

シーズン開始に間に合わせるようにスキーやスノーボードでフッ素を検出できる携帯型フッ素トラッカーシステムの開発を進めていたが、全ての競技者に公平で一貫した検査ができるレベルではないと判断し、2020年10月9日には、この禁止規定の実質的な適用を2021/2022シーズンからに延期した。

https://www.fis-ski.com/en/international-ski-federation/news-multimedia/news/flourinated-wax-ban-implementation-to-begin-in-the-2021-22-season

さらにFISは、2021年7月2日に検査体制のさらなる改善のために、2021/2022シーズン後からの運用開始へと再延期を決定した。

https://www.fis-ski.com/en/international-ski-federation/news-multimedia/news/update-on-fis-fluorinated-ski-wax-ban

2022年4月に開催されたFIS理事会においては、検査機器が完成したとして2022/2023シーズンからの運用開始をアナウンスしている(2022年4月7日)。

https://www.fis-ski.com/en/international-ski-federation/news-multimedia/news-2022/decisions-of-the-fis-council-at-its-april-meeting-2022

しかし、2022/2023シーズンから完全運用する予定だったフッ素検出装置にさらなる改良や検査手順の確立のための時間が必要だとして、その運用開始を2023/2024シーズンへと延期することをFISは2022年8月11日付けで発表した。

https://www.fis-ski.com/en/international-ski-federation/news-multimedia/news-2022/fis-postpones-full-implementation-of-fluor-wax-ban

 

FISもSAJも、フッ素製品に含まれる化学物質による人体や環境への悪影響を低減することは最優先事項だとしており、フッ素検出機器導入や違反への罰則規定整備に先駆けて使用禁止としているのが現状である。    (吉川昌則・青森大学)

 

第一回 「フッ素系スキーワックス禁止通知に関連して」         仁木國雄


第一回 「フッ素系スキーワックス禁止通知に関連して」 仁木國雄(菅平スキー科学研究会)

アピール:フッ素系スキーワックスの使用は直ちに止めよう。

2022/07/11に全日本スキー連盟より「フッ素系ワックスの使用禁止について」の通知があった。これに先立ち、FIS(国際スキー&スノーボード連盟)では2020年に2022/2023シーズン以降のすべてのFIS公認大会においてC8/PFOAを含むフッ素系ワックスの使用禁止を決定しております(ICR第222.8条)。これは、EUで、フッ素系ワックスの生産、取引および使用を禁止したことを反映したものである。

これらの動きは、以下のフッ素化合物の問題点に対する世界の取り組みの結果と考えられる。

 

フッ素化合物の人間に対する毒性

フッ素化合物の環境への問題点

・フッ素化合物は分子間引力が小さいので沸点が低く気化しやすい。そのため分子の熱容量が大きく温室効果ガスとしての効率が二酸化炭素やメタ

ンに比べて特別に高い。

・化学的に安定な化合物が多く、環境長期残留による生物への影響が懸念。

 

これらの問題点は冷蔵庫のフロンガスが問題となって以来指摘されて来たが、スキーヤーはフッ素系ワックスを使用し続けて来た。それはフッ素系ワックスがどの条件にも有効で使い易いからである。

我々スキー学会関係者として、健康問題や地球の将来に関して禍根を残す行為を見て見ぬ振りをしてきたことを反省し、遅ればせながらも積極的に行動すべきと考えます。

 

ワックスを考えよう:スキーの滑走原理とワックスの効果を概説する。

競技スキーでは、より滑りやすくするために、或はクラッシックスタイルのノルディックスキーでは登攀時にスリップを防ぐために、スキー滑走面にワックスを塗る。レクレーションスキーでも、より快適なスキーを求めて、寒い時や暖かいなどの条件に合ったワックスを使用する。

スキーワックスの歴史は定かではないが、従来使われていた木材系の滑走面の場合表面を滑らかに仕上げただけでは良く滑らず、ラッカー等で塗装する、パラフィンを塗るなどの試行錯誤が行われてきた。滑走面に撥水性と適度な柔軟性を示す高密度の結晶性ポリエチレンが使われる様になってからは(硬い結晶部分と非結晶の柔軟な部位が混在する)、言わばポリエチレンの“きれっぱし”ともいえるパラフィンがワックスの主な素材となった。パラフィンはポリエチレンとの分子間力が強く塗りやすい上にポリエチレン素材の空間に入り込みやすく剥がれにくい。分子量の異なるパラフィンを混ぜて硬さの異なるワックスを調整して低い雪温には硬いワックスを使用するなどが工夫され商品も提供されてきた。また、撥水性を高めるためにアルミの粉末を混ぜた銀パラなどが使われてきた。さらに静電気による雪の付着を防ぐためにカーボンを混ぜて電気伝導性を付加した黒いポリエチレン滑走面も競技用スキーには用いられた。ここで問題となっているフッ素系ワックスもパラフィンを主体としフッ素化合物混ぜたものと思われる。

 

ここまでワックスの性能を硬さと撥水性で表現してきた。

ここからは、スキー滑走面の撥水性と雪との摩擦係数について述べる。

テフロンの摩擦係数が特別に小さいことは知られている。しかしスキーの滑走面材料としては硬いこと、スキー板に接着しにくいなど実用化されていない。その代りパラフィンにフッ素化合物を混ぜて摩擦係数を小さくするのが問題となっているフッ素系スキーワックスである。

ところで、テフロンは撥水性が大きいことが知られている。そしてテフロン板の上の水滴は空中に於ける水滴と似て丸くなる。これは、水滴内の水分子同士の引力で水滴が丸くなると考えられる。一方、撥水性が小さい物体上の水滴の場合水との引力で接触面が大きくなり水滴はつぶれた形となる。撥水力は、接触面で水が他の物質に濡れる面積で評価できる。撥水力の数値化は難しく、撥水力と雪との摩擦力は直接結びつけられないが、滑走体と水或は雪との接触面積で評価できると考えられる。

実際のスキー滑走の摩擦力は、滑走体平面とデコボコの雪との結合力(凝着力)をせん断する力(滑走体を滑らせるときの抵抗力、或は滑走体と接触する雪を結合方向と直交する方向に引きちぎるのに必要な力)である。滑走実験の結果では、摩擦力は雪粒子の大きさ、雪温度、滑走速度に依存する。粒子の大きさは単位面積当たり接触する粒子数と関連し、接触面積に直接反映する。雪温度は雪の固さを支配する。滑走速度依存性は低速度で顕著である。

 

現代物理学において、摩擦力の原因は互いに接する物体間の凝着力に起因することは誰もが認めるところである。それは、接する物体の外見上の接触面積では無く真実接触面積(ミクロな接触面積の総和)に依存することから明らかである。その上で、スキーが良く滑る現象は、現在主に2つの滑走原理により説明されている。

  • 摩擦融解説・・・接触面に発生する摩擦熱により接触面の雪が融けて水が発生し、その融け水が潤滑材の働きするため摩擦係数が小さくなると説明されている。この説は現在最も広く引用され、特に欧米では主流の考え方である。
  • 凝着説  ・・・凝着力は弱い分子間力の集まりで、物体が近接すると必ず発生する引力的力である。そして接触面に垂直方向では強力であるが、水平方向(せん断力)では小さくなる。ところで、雪や氷のせん断力は極端に小さい事が知られている。すなわち雪は本来摩擦係数が小さいのでスキー滑走を説明するのに摩擦熱による水の発生を考慮する必要は無い。

 

広い温度範囲に渡るスキー滑走におけるワックスの効有効性は、上で解説した様に凝着説により無理なく説明できる。撥水性が高いと凝着力が小さい(分子間力が小さい)ことも混乱を招いているかも知れない。

フッ素化合物を含まないワックスはパラフィンに撥水性の高い(分子間力の小さな)物質を混ぜることにより作れると考えられる。既に実用化されているガリウム(金属ガリウムの微粉末)を混ぜたワックスはフッ素系の代替ワックスとして期待できるし、その他にも開発の可能性は有ると思われる。

ただし、パラフィンに混ぜる撥水性物質の毒性、環境安全性などに十分配慮する必要がある。とりわけ、自然界で分解されない微粉末については処理や回収を考えて置くべきであろう。